伝統文化事業【伝統木版画】


 

市川鰕蔵の竹村定之進

東洲斎写楽は、寛政六年(1794)五月から翌七年一月のわずか十ヶ月間に、江戸にあった幕府公認の芝居小屋、都座・桐座・河原崎座の三座で行われた狂言を題材にした役者絵140数図をあわただしく残して忽然と消えた絵師である。個性的な描写の役者絵は、初め驚きをもって庶民に迎えられたが、憧れの人気役者の夢を壊すような作画に人々の関心をつなぎ止めることはできなかった。20世紀初め、ドイツ人のユリウス・クルトが『写楽』の書でその偉大さをヨーロッパの人に知らしめるまで、省みられることはなかったのである。本図は寛政六年五月河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」で市川鰕蔵が演じた竹村定之進である。大名の家臣伊達与作と奥女中重の井の不義密通を巡る事件を中心に悪臣の悪事をからませた狂言で、重の井の父竹村定之進が大名の指南役という役職にあったために娘の責任をとり切腹する狂言である。五代目市川団十郎のちの市川鰕蔵は、寛政期を代表する格の高い名優として人気を得ていた。義理堅く、忠誠心の強い竹村定之進が娘の不始末に苦悩する心情を、写楽は見事にとらえ、重厚で存在感のある鰕蔵を描いている。単純な色彩の組み合わせと背景の黒雲母は、効果的で強い印象を持たせ最高傑作と高い評価を得ている。「あまりに真を画かんとしてあらぬさまにかきなせしかば長く世に行はれず 一両面にして止む」としか記録に残されていない写楽の役者絵からは、役者の美貌を美しく描くことに執着せず、役者を鋭く捉え役者の個性を的確に表すという芸術的な意志が読みとれる。歌麿に続いて写楽を世に出し、浮世絵の黄金期を作り上げた版元蔦屋重三郎の業績が、いかに偉大であったかが知れる。そのことで蔦屋重三郎は寛政の改革で幕府と対峙することになり、その見せしめとして財産半分没収の罪を負わされ、不遇のうちに48歳の働き盛りで世を去ってしまった。


役者絵 東洲斎写楽筆(作画期1794‐95)
認定  NPO法人国際浮世絵文化協会
販売者 株式会社KUMANOYA

額装付き
額 木製 ガラス張
版画紙 和紙
マット 布張り
製法 手摺り版画
定価 35,000円(税別)


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